わが道をひらく
五輪書。それは、生涯にわたって兵法の道を探求し続けた宮本武蔵が、その奥義を記したもの。五輪書では、兵法を5つの道に分け、「地」「水」「火」「風」「空」の5巻として書きあらわされている。
宮本武蔵と五輪書
戦国時代の末期に生まれた武蔵は、13歳のころから兵法者と命懸けの勝負をしていたという。21歳のときに京へ上った武蔵は、天下の兵法者と勝負を重ね、すべてに勝利する。諸国を回りながら武芸者と勝負をし、武者修行を続けていった武蔵は、20代の最後に佐々木小次郎と勝負することになる。関門海峡の無人島の舟島(のちの巌流島)で、小倉藩の兵法師範だった小次郎を一撃のもとに倒すのである。62歳を迎えた1643年の秋には霊厳洞にこもって、五輪書を書き始める。1645年の春、五輪書を書きあげて間もなく息をひきとった。
バス釣りと五輪書
「細かな技巧は問題ではなく、剣術の真の道とは、敵と戦って勝つことである」、「何事も速くしようとすれば、拍子の間が合わず、はずれてしまう。相手がむやみに急いでいるときには、あえて静かに構え、相手に引きずられないようにすることが大切だ」といった基本的な教義は、バス釣りにも通じる教えであるともいえる。この五輪書を下敷きとしてバス釣りにおける戦法を取りまとめてみたい。
地の巻
地の巻においては、兵法の道のあらましや、武蔵の流派の見かた・考えかたを説いている。兵法におけるまっすぐな道の地ならしをすることになぞらえ、地の巻と名付けられた。
バス釣りはハンティングだ
魚釣りといっても様々だ。日本古来の釣りといえば、エサでサカナを釣る方法で、基本的には、エサでおびき寄せ喰わせる待つ釣りだ。一方、バス釣りの基本的なスタンスは異なる。バスというサカナは、比較的その生態が明らかとなっていることから、その動きを読み、その状況に適したアプローチをすることで釣るというスタンスだ。
自らサカナにアプローチしていく。それは、形は違えども獲物をライフルで撃ち落とすことに似ている。つまり、バス釣りはハンティングなのだ。この基本的なスタンスに立ち、如何に効率的にグッドサイズを釣るかという点にこそ、バス釣りのゲーム性があり、他の釣りにはない面白さとなっている。
バス釣りは餌釣じゃない。ハンティングだ。この基本的なスタンスに立って、自分のバス釣りのスタンスを見直してみる。待つのではなく、こちらからアプローチしていく釣り。狙って釣るというスタイル。釣れたではなく、釣ったといえるかどうかが、その分岐点となる。
水の巻
水は器にあわせて形をかえ、一滴ともなり、また大海ともなる。そんな水の清らかさを心に抱いて書かれたのが、水の巻だ。
バスというサカナ
賞金レースでもあるトーナメントにおいて、なぜキーパーサイズが定められているのか。その理由のひとつには、ゲーム性がある。技術を競うゲームであるがゆえに、偶然の要素は出来るだけ排除したい。バス釣りはシーズナルなパターンを読み取り、バスを探しだすことにある。
そのシーズナルなパターンの中核になるのは産卵だ。つまり、産卵に絡まないバスにゲーム性は乏しい。実際、産卵に絡まないいわゆる小バスは好奇心でバイトしてくることも少なくない。ゲーム性を求めるバス釣りにおいては「如何に好奇心をくすぐるか」といった要素は、バスを探し出す技術を競うゲームにおいては、第一義ではない。
競技ではないバス釣りにおいて、好奇心をくすぐることでバスを釣ることは否定されるものではない。しかし、バス釣りの基本的なスタンスに立ち、本来、自分が釣りたいと思っているサイズとの天秤にかけてみるとどうだろうか。バス釣りというジャンルに踏み込んで、あえてゲーム性を無視したり、サイズを妥協する必要はあるだろうか。
バス釣りはこうでなければならない、といった規則はない。だからこそ、自分の釣るバスをどう定義するかが重要だ。「小バスはバスじゃない」。そういった見方をするだけで、大海が広がるかもしれない。そこに待ち受けていることは、決して易しくはないが、きっと充実したものになるに違いない。
火の巻
「火の巻」では「水の巻」で説いた水の心身を使っての戦術戦略を説く。戦い勝負のことを火の巻としてこの巻に書きあらわす。
ルアーの種類と自分のサカナ
バス釣りのルアーには、様々な種類のルアーがある。バスは、基本的にストラクチャーフィッシュであることから、こうしたルアー種別は、様々なストラクチャーやカバーを効率的に釣るためにあるといえる。
アングラーはバスのいる状況を読み解き、その状況を最も効率的に攻略するためのルアーを選択する。どのような状況においても、同じルアーを選択しつづけることは、効率化の観点を無視した選択であるといえる。
ルアー種別に優劣はない。バスが確実にいるとわかっているならば、スローに釣ることが最も効率的だ。そうでなければ、活性の高いバスを広く探っていく選択が効率的かもしれない。
とにかくサカナを手にすることを目的とするのか、それともバス釣り本来のゲーム性、つまり効率性を追求することを目的とするのか。バス釣りにおいては、アングラーはこの基本的な戦術の在り方を選択しなければならない。
フィールドには、様々な状態のバスが存在している。どの状態のバスが自分のターゲットとなりうるのか。”自分のサカナ”を定義することで、その手段は定まっていくといえる。
風の巻
「風の巻」は武蔵から見た他の剣術流派の批評。武蔵は他流派の事をしっかり知ることで、真の意味で自流派を理解できると説いた。固定観念に縛られた、形骸化した兵法を良しとしない。
情報の真実を見抜け
釣るためには情報が必要だ。しかし、釣れるポイントやルアー、リグに至るまで、とにかく、釣れないのは情報不足に起因するという罠にはまってはいけない。情報さえあれば、釣りを有利に展開できると信じることは危うい。
釣りの面白さであり、難しさのひとつにフィールドの変化がある。フィールドは常に変化している。同じ状況は二度と起きないといっても過言ではない。「釣れた情報」と同じ状況ではないにもかかわらず、その情報に縛られることは、無意識に選択肢を狭めてしまう。
また、使用したルアーだけの情報では、実際にどのような状況でどう使ったのかを知ることはできない。ルアーの名称だけで使い方を自分の価値観で想像したとしても、それは大体のケースにおいて間違っている。
情報として活用できる確かなものは、誰が解釈しても変わらない情報だ。それは、気温・水温・水位・流入/流量などの環境指標。こうした数値化できる情報には自分の価値観による歪曲の余地がない。
こうした情報をその日の点として見るのではなく、数日間の線で観察することも重要だ。23℃といっても、下がってきた23℃か上がってきた23℃では意味が異なる。また、その変化をもたらした期間も重要だ。
数値化できる事実の情報にのみに目を向け、点ではなく線の情報として変化と意味を読み解く。情報化社会では、「如何に情報を得るか」ではなく、「どの情報を捨てるか」が重要となる。
空の巻
「空の巻」は、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、観と見の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空とした教え。
直感を行動に移す
人は意識して見なければ見ることはできない。たとえ、視界に情報が入っていたとしても、意識してみなければないものと同じ。しかし、無意識はそれを情報として捉えている。
刻一刻と変化し、同じ状況をもたらさない自然に対して、すべてを把握して意識的に答えをもたらすことは現実的ではない。直感は、その無意識の情報と既知の情報とを組み合わせて引き起こされるもの。
何かを見よう、知ろうと意識するのではなく、全体を俯瞰してみることで、直感はもたらされる。武蔵は、それを「観の目」といい、全体状況を俯瞰するロングショットの視点を説いた。
水面に目を向ければ水鳥の様子がわかる。岩盤に目を向ければ、その崩れから、水中の様子がわかる。平常心を持って、目に映る情報からもたらされる直感を感じ取る。そして、その直感を信じて行動に移す。これぞ、まさに「経験を活かす」ことといえるだろう。
9つの掟
武蔵は、兵法を学ぶ者へ「9つの掟」を記している
① 邪心を持たない事
② 道は観念ではなく実践によって鍛える事
③ 一芸ではなく広く多芸に触れる事
④ おのれの職能だけでなく、広く多くの職能の道を知る事
⑤ 合理的に物事の利害と損得を知る事
⑥ あらゆることについて直観的判断力を養う事
⑦ 現象面あらわれない本質を感知する事
⑧ わずかな現象も注意を怠らない事
⑨ 役に立たない無駄な事はしない事
我事において後悔をせず。
自他共にうらみかこつ心なし。
仏神は貴し、仏神をたのまず。
身を捨ても名利はすてず。
常に兵法の道をはなれず。